行ってまいりました、ビエンナーレ。
非常に見応えがありました。
一日平均8~10時間、展覧会と美術館を渡り歩く毎日でした。
ガラス工房で有名なムラーノ島も、ちょうど国際映画祭が開催中
のリド島も無視、ゴンドラにも乗らなけりゃヴェネツィアングラスの
店をのぞくこともなし、非常に生真面目な旅でしたが、美術だけで
お腹いっぱいなので満足です。
こんな機会でもなければ、普段、現代美術の展覧会をじっくり見る
ことなどないのですが、さすがビエンナーレ、世界中から無数の作
家が競演を繰り広げていて、面白かったです。
ヴェネツィアで見てきたものを少々。
こちら、ジャルディーニ会場のスペイン館
の展示です。ミケル・バルセロ(Miquel
Barceló)の作品。
素焼きの円筒に絵を描いただけに見えます
が、バイソンの尻や頭の部分は地肌に凹凸
をつけて半立体的に表現しています。
これがなかなか視覚的に面白い。
ラスコーの洞窟絵画の現代版ですな。
同じ作家の作品。
同じく素焼き壺に半立体の魚。
口の部分が開口部になって
いる。花とか一輪ずつ挿した
ら面白いかもしれない。
うん、コレ欲しいな(笑)
こちらは、ベルギー館。ジェフ・ヘイス(Jef
Geys)の作品で、ブリュッセル、モスクワ、
ニューヨーク、ヴィルーバンヌの4都市で
採集した道端の植物を押し花にし、学名や
効能などの情報と、採った場所の写真と共
に展示したもの。
中世の本草図譜、郊外の公園なんかに設
置されている植生地図、ひと昔前まで夏休みの課題で作る子供
も多かった押し花標本、と、いろいろなところから着想を引き出し
てきて、全く新しい作品に仕上げている。

これは国際パヴィリオンに展示されて
いるドイツのハンス・ペーター・フェルト
マン(Hans-Peter Feldmann)のイン
スタレーション。
影絵の技法を使った単純なものだが、
泡だて器とか栓抜きとか、よくわから
ないフィギュアとかがくるくる回りなが
ら映し出す影は、不思議に幻想的で
面白い。
これは常に写真を撮る人で混雑していた
アルゼンチンのトマス・サラセノ(Tomas
Saraceno)の作品。
部屋中に黒いワイヤー(というか若干伸
縮性のある太い糸みたいなマテリアル)
を張りめぐらして、ネットワークでつなが
った現代社会を表現している。
宇宙空間のような、放散虫とか海の生物
を想わせるような、不思議な世界。
こちらは、アルセナーレ会場のブラジル人アーティスト、
リジア・パペ(Lygia Pape)の作品。
暗闇の中に浮かびあがる金色の光の帯が美しい。

こちらは同じくアルセナーレのSunil Gawde(インド)の作品。
丸い円をくり抜いた板の裏に、時計のゼンマイ仕掛けのよう
に回転する板を取り付け、月が満ちたり欠けたりする様子を
表現している。
→裏側
なかなか複雑。
こういうの、数学的な素養がないと創れないだろうな。
oeverには逆立ちしてもムリだ。
発想の面白さで際立っていたのがこちら。
中国のChu Yungの作品。
わかりますか?
暗闇にポツポツと明滅する光点は、すべて
電化製品のパイロットランプ。
同じショットをフラッシュ有りで撮るとこうなり
ます→
他、面白かったのは、アイルランド館の
Kennedy Browne(ケネディとブラウン
という二人のアーティストのコラボレー
ション)の作品。
アイルランドの展示は、ジャルディーニ・
アルセナーレの2メイン会場ではなく、
市内の別の建物を借りてやっています。
これは、発想としては単純な伝言ゲーム。

一番左上にある英語のテキストを、順次、次々に
他の言語に訳していきます。
「この鉛筆を見よ。この鉛筆を作ることができる者
は世界に一人たりともいない。意外に聞こえる
発言だろうか?否、全くそんなことはない。・・・」
この英語ヴァージョンが次々と転訳されていって、
イタリア語から日本語に訳されたヴァージョンが
こちら。
「鉛筆して下さい。これは、世界のことができる鉛筆
ではありません。非常事態宣言?がある・・・」
・・・なんのこっちゃ。
機械翻訳特有の文章崩壊。ディスコミュニケーションの可笑しさですね。一つひとつ
の単語レベルでは決して間違っていなくても、文として意味をなさない、という。
機械化も極限レベルに到達しつつある時代の、どこか不条理な不器用さを諷刺して
いるように思います。

個人的に好きだったのが、こちら。
アルセナーレの香港館はPak Sheung Chuenの作品です。
韓国釜山のアパートの一室で、延々、呼気をビニール袋に詰め続ける
男性のVTR映像が、高速の早送りで流され続けます。
単純作業の繰り返しと、どんどんスペースを侵食していくビニール袋の
山が、早送り映像によって、どこかコミカルに表現されていく。
妙に不条理で笑える作品でした。
アーティストのコメント;「釜山のアパート(6.7mx2.7mx2.2m)に入居し、
そこで普通に生活しながら、自分の呼気を透明なビニール袋に集め
続けた。袋が部屋を埋め尽くすまで10日かかったが、僕は自分の生活の
一部が、このアパートの部屋に取り込まれたように感じた。」
* * *
ここで出した写真は、いずれもoeverのような初心者にもわかりやすい
綺麗めな作品ばかりです。
もっと笑えないのやグロテスクなのをたくさん見ましたが、そちらはまた
後日。
結論として、現代美術を楽しむには、それなりの心のゆとりというか、遊
び心が要求されるように思います。見る側に余裕がないと、「何ソレ」とか
「ワケわからん」という困惑や、さらにはいら立ちすら感じるかもしれませ
ん。精神的に、いろいろなものを受け容れるゆとりがあるときに見たほう
が良いです。これは現代美術に限らず、古い時代の作品でも同じです
が、いわゆる〈幸福な出会い〉というヤツ(つまり、はっきりした理由の有る
無しにかかわらず、”ストンと腑に落ちる”というか、”いいなあ”と思える作
品に出会う瞬間)というのは、見る側の精神状態がオープンであるときに
訪れる確率がぐんと高くなるのです。
最後にヴェネツィアの風景。
地元住民も観光客もひっくるめて、様々な人がそれぞれの時間をそれ
それのペースで生きている、洗練されていて整ったものも、その裏側で
打ち捨てられたり顧みられないものも、どこか臆することなくあるがまま
に存在している、そんな雰囲気を感じる街でした。

非常に見応えがありました。
一日平均8~10時間、展覧会と美術館を渡り歩く毎日でした。
ガラス工房で有名なムラーノ島も、ちょうど国際映画祭が開催中
のリド島も無視、ゴンドラにも乗らなけりゃヴェネツィアングラスの
店をのぞくこともなし、非常に生真面目な旅でしたが、美術だけで
お腹いっぱいなので満足です。
こんな機会でもなければ、普段、現代美術の展覧会をじっくり見る
ことなどないのですが、さすがビエンナーレ、世界中から無数の作
家が競演を繰り広げていて、面白かったです。
ヴェネツィアで見てきたものを少々。
の展示です。ミケル・バルセロ(Miquel
Barceló)の作品。
素焼きの円筒に絵を描いただけに見えます
が、バイソンの尻や頭の部分は地肌に凹凸
をつけて半立体的に表現しています。
これがなかなか視覚的に面白い。
ラスコーの洞窟絵画の現代版ですな。
同じく素焼き壺に半立体の魚。
口の部分が開口部になって
いる。花とか一輪ずつ挿した
ら面白いかもしれない。
うん、コレ欲しいな(笑)
Geys)の作品で、ブリュッセル、モスクワ、
ニューヨーク、ヴィルーバンヌの4都市で
採集した道端の植物を押し花にし、学名や
効能などの情報と、採った場所の写真と共
に展示したもの。
中世の本草図譜、郊外の公園なんかに設
置されている植生地図、ひと昔前まで夏休みの課題で作る子供
も多かった押し花標本、と、いろいろなところから着想を引き出し
てきて、全く新しい作品に仕上げている。
これは国際パヴィリオンに展示されて
いるドイツのハンス・ペーター・フェルト
マン(Hans-Peter Feldmann)のイン
スタレーション。
影絵の技法を使った単純なものだが、
泡だて器とか栓抜きとか、よくわから
ないフィギュアとかがくるくる回りなが
ら映し出す影は、不思議に幻想的で
面白い。
これは常に写真を撮る人で混雑していた
アルゼンチンのトマス・サラセノ(Tomas
Saraceno)の作品。
部屋中に黒いワイヤー(というか若干伸
縮性のある太い糸みたいなマテリアル)
を張りめぐらして、ネットワークでつなが
った現代社会を表現している。
宇宙空間のような、放散虫とか海の生物
を想わせるような、不思議な世界。
リジア・パペ(Lygia Pape)の作品。
暗闇の中に浮かびあがる金色の光の帯が美しい。
こちらは同じくアルセナーレのSunil Gawde(インド)の作品。
丸い円をくり抜いた板の裏に、時計のゼンマイ仕掛けのよう
に回転する板を取り付け、月が満ちたり欠けたりする様子を
表現している。
→裏側
なかなか複雑。
こういうの、数学的な素養がないと創れないだろうな。
oeverには逆立ちしてもムリだ。
中国のChu Yungの作品。
わかりますか?
暗闇にポツポツと明滅する光点は、すべて
電化製品のパイロットランプ。
同じショットをフラッシュ有りで撮るとこうなり
ます→
Kennedy Browne(ケネディとブラウン
という二人のアーティストのコラボレー
ション)の作品。
アイルランドの展示は、ジャルディーニ・
アルセナーレの2メイン会場ではなく、
市内の別の建物を借りてやっています。
これは、発想としては単純な伝言ゲーム。
一番左上にある英語のテキストを、順次、次々に
他の言語に訳していきます。
「この鉛筆を見よ。この鉛筆を作ることができる者
は世界に一人たりともいない。意外に聞こえる
発言だろうか?否、全くそんなことはない。・・・」
イタリア語から日本語に訳されたヴァージョンが
こちら。
「鉛筆して下さい。これは、世界のことができる鉛筆
ではありません。非常事態宣言?がある・・・」
・・・なんのこっちゃ。
機械翻訳特有の文章崩壊。ディスコミュニケーションの可笑しさですね。一つひとつ
の単語レベルでは決して間違っていなくても、文として意味をなさない、という。
機械化も極限レベルに到達しつつある時代の、どこか不条理な不器用さを諷刺して
いるように思います。
個人的に好きだったのが、こちら。
アルセナーレの香港館はPak Sheung Chuenの作品です。
韓国釜山のアパートの一室で、延々、呼気をビニール袋に詰め続ける
男性のVTR映像が、高速の早送りで流され続けます。
単純作業の繰り返しと、どんどんスペースを侵食していくビニール袋の
山が、早送り映像によって、どこかコミカルに表現されていく。
妙に不条理で笑える作品でした。
アーティストのコメント;「釜山のアパート(6.7mx2.7mx2.2m)に入居し、
そこで普通に生活しながら、自分の呼気を透明なビニール袋に集め
続けた。袋が部屋を埋め尽くすまで10日かかったが、僕は自分の生活の
一部が、このアパートの部屋に取り込まれたように感じた。」
* * *
ここで出した写真は、いずれもoeverのような初心者にもわかりやすい
綺麗めな作品ばかりです。
もっと笑えないのやグロテスクなのをたくさん見ましたが、そちらはまた
後日。
結論として、現代美術を楽しむには、それなりの心のゆとりというか、遊
び心が要求されるように思います。見る側に余裕がないと、「何ソレ」とか
「ワケわからん」という困惑や、さらにはいら立ちすら感じるかもしれませ
ん。精神的に、いろいろなものを受け容れるゆとりがあるときに見たほう
が良いです。これは現代美術に限らず、古い時代の作品でも同じです
が、いわゆる〈幸福な出会い〉というヤツ(つまり、はっきりした理由の有る
無しにかかわらず、”ストンと腑に落ちる”というか、”いいなあ”と思える作
品に出会う瞬間)というのは、見る側の精神状態がオープンであるときに
訪れる確率がぐんと高くなるのです。
最後にヴェネツィアの風景。
地元住民も観光客もひっくるめて、様々な人がそれぞれの時間をそれ
それのペースで生きている、洗練されていて整ったものも、その裏側で
打ち捨てられたり顧みられないものも、どこか臆することなくあるがまま
に存在している、そんな雰囲気を感じる街でした。
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